賢くなることを教える世の中に
自分の愚かさを気づかせる教えこそ
人間の道である
覚法寺だより 第64号
師走を迎えてなんとなく慌ただしさを感じる頃となり、今年も残り僅かとなりました。皆さまいかがお過ごしですか。覚法寺では11月18日に報恩講を無事にお勤めさせていただくことができました。皆さまには、この一年大変お世話になりありがとうございます。
最近、数名の方から法名についてのご相談をいただきました。浄土真宗では、親鸞聖人が「釈親鸞」と名のられたことから「釈」(お釈迦様の釈、仏弟子を表す)の字を頭にいただき、下に二文字の法名をいただきます。法名は亡くなった方に付けられる名前ではありません。お念仏のみ教えを拠り所として生きる身として本山の阿弥陀如来・親鸞聖人の御前で浄土真宗の門徒としての自覚をあらたにし、帰敬式を受式された方に本願寺住職(ご門主さま)より法名が授与されます。生前に帰敬式をお受けになれなかった方には、お手次のお寺の住職がご門主さまに代わって付けさせていただくことになります。関東では築地本願寺にて受式できる日もありますので、詳細は覚法寺にお問い合わせください。
さて、親鸞聖人は、承元の法難という念仏弾圧により僧籍を剥奪され越後に流罪になってから「愚禿(ぐとく)親鸞」と名のられます。「愚禿」とは、自身を無知にして愚悪な破戒僧であるという意味です。それは、聖人が僧籍を剥奪され結婚して在俗の生活に身を置きながら煩悩にまみれて生きる「非僧(ひそう・僧にあらず)」の現実を慚愧(ざんぎ・深く恥じること)されたものです。それと同時に「釈」と名のられ、本願念仏の法は、「非僧」のそのままが「非俗(ひぞく)」であり「世俗」を仏教化する道であることを表しているとお聞かせいただいております。
35歳で流罪になり法然聖人と生き別れた親鸞聖人が、88歳で書かれたお手紙に「故法然聖人は、『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候(そうら)いしことを、たしかにうけたまわり候いし」(今は亡き法然聖人が「浄土の教えを仰ぐ人は、わが身の愚かさに気付いて往生するのである」と言われたことを確かにお聞きしました)と述べておられることも味わい深いものです。
自分がかわいい私にとって、自分の愚かさに気付かされそれを認めることは容易なことではありません。しかし、お念仏のみ教えに遇わせていただき「釈」を名のらせていただく身として、大切な指針であり、見失わないようにありたいと思っています。
合 掌
平成29年12月
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