聞法は
死の準備でなく
生の糧
覚法寺だより 第45号
平成二十八年熊本地震により被災された皆さま方に衷心よりお見舞い申し上げます
宗派においては、たすけあい運動募金「平成28年熊本地震」災害義援金の受付を開始いたしました。つきましては、募金にご協力くださいますよう、お願い申しあげます。詳細は別紙にてお知らせいたします。
さて、島根覚法寺では先月永代経法要をお勤め致しました。過疎と高齢化の著しい地域ではありますが、多くのご門徒さんがお参りくださいました。この伝統を伝え護っていこうと、思いを新たにさせていただくご勝縁でした。ご講師の先生から聴聞(ちょうもん)の心得についてのお話をいただきました。
一、このたびのこのご縁は、初事と思うべし
一、このたびのこのご縁は、我一人のためと思うべし
一、このたびのこのご縁は、今生最後と思うべし
浄土真宗では、法話(仏さまのお話)を聞くことをお聴聞あるいは聞法と呼びます。私たちは、悟りに至るために厳しい修行をすることはありませんが、この私を悟りの世界であるお浄土に生まれさせようと働き詰めでいてくださる阿弥陀さまのお心を聞かせていただくことを最も大切にして一生涯重ねてまいります。「仏法は聴聞に極まる」(蓮如上人・御一代記聞書)です。
お聴聞は、決して救いの条件ではありません。どれだけ長い期間聞いたとか何回も聞いたといった期間や回数は問題になりません。また、阿弥陀さまのお心がわかったから聞く必要がなくなるといったものでもありません。同じお話を何度聞いても、今の私にとっては常に初事です。前回とは違う味わいの深まりが出てくるものなのでしょう。また、阿弥陀さまのお救いは、十方衆生(一切の生きとし生けるもの)を目当てとして仕上げられたものですが、そのお救いにあずかるのは、この私自身です。「浄土真宗の救いのよろこび」には、「このよび声を聞きひらき 如来の救いにまかすとき 永遠(とわ)に消えない灯火(ともしび)が 私の心にともります」と示されています。そして、「仏法には明日という事はあるまじき」(蓮如上人・御一代記聞書)です。今、ご一緒にお聴聞の座に着かせていただきましょう。 合掌
平成28年5月
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