他人の意見を間こうとしない
これを我慢といい
自分の意見を聞かそうとする
これを憍慢という
覚法寺だより 第40号
今年も残すところひと月を切り、なんとなくせわしなく感じる季節となりました。有縁の皆様には、この一年大変お世話になりありがとうございます。厚く御礼申し上げます。
お陰様で、覚法寺分院の活動も五年目に入り、来年1月中旬には新たな聞法の道場が完成いたします。2月からは、定例法話会も再開できる見通しです。昨年までは、土日祝日のみの法座でしたが、この2月より曜日に関係なく毎月十五日に、合同での祥月命日法要をお勤めいたします。とくにお勤めの練習に重点をおいた法座を予定しています。これまでは、お仕事の都合等でお参りになれなかった方、お経を読めるようになりたい方、祥月命日にあたる方は、是非、ご参加お参りくださいますようご案内申し上げます。
さて、今月の法語には、「我慢(がまん)」「憍慢(きょうまん)」という仏教用語がでてきます。私たちが普段から使っている言葉の中には、元々仏教からでたものが少なくありません。その中には本来の意味とは大きくかけ離れた使われ方をされていることもあります。例えば、お念仏のみ教えの上で最も大切な「他力本願」は、悟りを得る資質も求めようとする心もなく、悟りへの道の閉ざされているものをこそ救わずにはおれない阿弥陀さまの大慈悲心とそのおはたらきを顕す言葉なのですが、自分では何もせずに人任せにする、お横着者の代名詞のように用いられることは悲しいことです。
「我慢」も本来とは違う意味で用いられています。元は「我への執着から他人と比較して自分を高く見て他人を軽視する心」のことで煩悩のひとつなのですが、今では「忍耐、辛抱」といった意味で用いられています。ちなみに「憍」は、「比較せずに自惚れ、思い上がる」ことです。ついつい慢心がでてきたときに、「我慢だぞ我慢だぞ」と抑えようとしたことから耐え忍ぶ意味で使われるようになったという説もあるようです。
自分のことは自分が一番よく分かっていると思い込んでいることが既に「我慢」「憍慢」なのかもしれませんね。自分ではなかなか気付けずにいるこの私のあり様を阿弥陀さまはどのようにご覧になっていらっしゃることでしょう。「必ず救う」とのお心の上に窺ってまいりたいと思います。
ご一緒にお聴聞なさいませんか。お誘い合わせてお参りください。
合 掌
平成27年12月
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