生死の帰依処を説かれた
仏陀のみ教えに
耳を傾けてゆくのが読経である
覚法寺だより 第26号
お彼岸が過ぎ、いよいよ秋も深まってまいりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
先日、法事でお参りさせていただいたお宅で「何のためにお経を読むのですか」と、ご質問をいただきました。この、ストレートな質問には、少々戸惑いました。と言うのは、浄土真宗のみ教えの上からは「仏徳讃嘆」(仏さまのお徳を讃えること)ですとお答えできるのですが、質問者の意図は、何かの役に立つのですか?というように感じられたからです。
確かにお経は、耳慣れない意味の解らない言葉の連続で、呪文のように聞こえてしまうのかもしれません。解らないけれども何となくありがたく聞こえる人もいれば、怪しげで胡散臭いと思ってしまう人もいることでしょう。そして、お経を読んだから良いことが起こるとか、自分の願いが叶うということはありません。
ところで、あなたは自分の顔を見るときはどうしますか?そう、鏡に映しますよね。では、自分の心はどうでしょうか。私たちは、自分のことは自分が一番よく分かっていると思って生きています。しかし、自分の目で自分の目を見ることができないように自分の心は自分ではよく分からないものではないでしょうか。単に分かっているつもりになっているだけなのかもしれません。
浄土真宗で読まれるお経(浄土三部経)は、全て阿弥陀さまの願いが説かれています。そのお心を通して自分では決して気付くことのできない自分自身に気付かせていただく、言わば心の鏡であり人生のたしなみでもあるのですとお話しさせていただきました。
妙好人として知られる讃岐の庄松(しょうま)さんは、字の読み書きはできなくてもお経のお心を「しょうまをたすけるぞよ、しょうまをたすけるぞよ」といただかれたことも味わい深い逸話です。阿弥陀さまは「必ず救う。安心してまかせよ」と常に寄り添い、喚び続けていてくださいます。
島根の覚法寺では10月19日に、東京分院では11月16日に報恩講法要をお勤めさせていただきます。ごいっしょに、阿弥陀さまの願いに耳を傾けさせていただきましょう。皆様、お誘い合わせてご参拝くださいますようご案内申し上げます。
合掌
平成26年10月1日
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