世の中には物を失ったとき血眼になって探すが
心を失っても平気でいる人が多い
舟橋一哉
覚法寺だより 第23号
今年も半年が過ぎ、お盆の季節を迎えました。ご先祖様をお迎えするという考えに基づいて営まれることの多いお盆ですが、浄土真宗では、お盆だからご先祖様が返ってくるとは考えません。仏さまがご用意くださった仏法聴聞のご縁と受け止めさせていただきたいことです。
ここ数年、葬儀の簡素化が進み、ついには「0葬(ゼロソウ)」というところに行き着いた事を知りました。これは、著名な宗教学者が著した本の題名ですが、火葬しても遺骨を引き取らずに火葬場に処理を任せるというものです。当然、お墓も無用となります。
親鸞聖人は「それがし親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」(改邪鈔ガイジャショウ)と仰られたと伝えられています。しかし、残された者はそうすることはできませんでした。聖人ご往生の後、末娘の覚信尼さまと門弟によって火葬され遺骨は墓所に埋葬されました。やがてお堂に移され聖人のお木像が安置されて聖人を慕う門弟がお参りする場が整えられました。それが、本願寺の起こりです。
仏教は、全てのいのちは、相依り相係わって生きていると教えます。ひとりのいのちは、生涯にわたって多くの人に育てられ無数のいのちによって支えられています。また、ひとりのいのちは、他のいのちへ計り知れない影響を与えていることでしょう。
映画「おくりびと」の元になった「納棺夫日記」の著者青木新門氏が葬儀専門誌で「人生で出遇った人への感謝の心やお蔭様の心を失って自己中心に生きるとき、人は〈葬式は要らない〉と思うようになる。」と記されています。
日頃は、忙しくて仏様を忘れがちな私に「大切なことを見失うなよ」と先人方の声が聞こえる気がします。
合掌
平成26年7月1日
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